この胸に去来する虚無感は、何なのだろうか。
 それさえ解ればいつの日か、私は幸せになれるのだろうか。


 そんなことを考えながらただ日々を無駄に浪費して、気がつけば明日で27の誕生日を迎えることを思い出す。
 たまの休日。久しぶりに会った彼氏は未だ結婚だの同棲だのと言った話題一つ出さず、 相変わらずこの間見た三谷幸喜が監督したと言う映画についてとか、 昨日テレビでやっていた洋画が面白かっただとか、そんな他愛ない会話とセックスをして帰って行った。
 別に今すぐに結婚なんてしなくてもいいし、今の仕事を辞めて専業主婦になるなんて 真っ平御免だとは思うけれど、やはりこの歳になると多少は親だとか親類だとか、 周りの目も気になるし、明日の誕生日で27。つまり、後三年も経てば30だ。 30過ぎても独り身だったらなんて考えるとどこか焦りは出てきてしまうのだけれど。
 それでもこの関係が不満だとか考えたこともなかったし、 彼から『結婚しよう』なんていう言葉を聞くなんてこと自体想像が出来なかったから 今のこの状態が一番いいのかもしれない。

 ココ最近ふと年甲斐も無く箱が可愛いと言う理由だけで買ってしまった ピアニシモペシェ』とかいう銘柄の煙草を一本口に銜え、百均で買ったライターで火をつける。
僅かな紫煙の煙と、少しだけ香る桃の香り。あぁ、やはりこの間同僚に貰った 黒い箱のココナッツの香りのする煙草の方がずっと美味しいや、 と思いながら窓を少し開けると、冬の冷たい外気が室内に流れ込んできた。
 向かいのマンションのベランダには、ぽつんと赤い小さな点が見えた。 多分、奥さんか誰かに煙草は外で吸えと追い出された旦那さんだろう。 かわいそうに、なんて勝手に同情しながら煙草の灰をベランダに落とす。


 空虚な時間。
 独りが寂しいとか、そんな子供じみた感傷ではなく、ただ無性に周りとの温度差を感じる。
 この感情を、なんと説明すればいいのだろう。
 子供の頃から人並みには本を読んできたつもりだったけれど、 それでもこの胸に燻っている何かを言葉というものにして表せることが出来るほど 私には語彙も無かったし、豊かな文章能力なんてものも無かった。
 こんな時決まって思い出すのは、あの女のことだ。 高校時代にほんの数ヶ月だけ関わっただけの、一人の少女……『峰』のことを。





 その女と出会ったのは、もう部活も引退してからのことだった。
 ふと暇つぶしがてらに部室に立ち寄った時、彼女はそこに居た。 いつから居たのか、とか、そんなことは覚えていない。……否、知らない、と言った方が正しかっただろうか。 顔立ちはもうぼやけていて思い出せないけれど、そこそこ良かった気がする。 ともかく、彼女はいつのまにかその場所に居た。
 名前は……何と言ったのだろう。覚えているのは、ただ私が彼女のことを「峰」 と呼んでいたということだった。多分苗字の一文字から取ったのだろう。 もしくは、もっと別の。そう、煙草の『峰』からとったのかもしれない。 なぜなら記憶の中の彼の纏っていた香りは、あの『峰』の香りそのものだったからだ。

 ともかく、出会いはごく平凡なものだった。
部活の先輩であった私が顔出しをしたら、彼女に出会った。それだけのものだ。
 最初の頃は峰は別の子と話をしていたり、部活に精を出していたりして話す機会はほとんどなかった。 峰はあまり話したがる方ではなかったように思えるし、単に先輩である私と話す気がなかったのかもしれない。 私自身も他の後輩と話をすることの方が多く、自分から峰に話し掛けようとは思っていなかった。
 けれど、ある日私が部室に行くとそこに居たのは峰一人で、後輩を待つ間にと気紛れに話しかけてみると 意外や意外、中々に峰は面白い子だったのだ。
 その日以来、気がつけば放課後は「峰」と会う時間になっていた。
 もとより人数の少ない部活は、一体いつの時代の先輩が決めたのやら 週5日も合ったのだけれど、大抵が幽霊部員や別の部と兼ねている子ばかりで。 私が部室に行くたび、そこに居るのは大方が峰1人か、もしくはほんの数人の後輩だけだった。
 正確に言えば、私が峰と話したかった為に他の部員がいなそうな曜日を選んでいたせいもある。

 記憶の中の峰は、私が行くといつも何かしらの本を読んでいた。 それは時としてファンタジー小説だったり、文庫本だったり、洋書の時もあれば哲学書の時もあった。 ともかく趣味が一貫していなくて、一度だけ経済誌を読んでいたことがあったことは今でもはっきり思い出せる。

「それ、面白い? 」
「そう思いますか?先輩」

 彼女の向かい側の席に座って尋ねてみる。私としては、単なる日常会話程度の意味合いで聞いてみたまでだ。 けれど、まさかこんな切り返しをされるとは露にも思っておらず驚いてしまう。
(それまでの峰との会話を思い出せば、有り得たのかも知れないが)
 そんなことを聞かれても、覗き込んで見える頁や本の装丁から私の読んだことのある本ではないように思えるし。
 困った。全然答えが思いつかない。
 私は懸命に返答を考えた。けれど、やはり思い浮かばない。 峰は、と言うと特にそれ以上の言葉を投げかけることもなく、私を焦げ茶色の瞳でじっと見つめていた。
 暫くの間、そうして沈黙が続く。と、彼女はふっと密やかな笑いを漏らす。
決して私を小馬鹿にしたり、というものではない、けれど真意の解らない笑み。

「峰? 」
「ごめんなさい、先輩。冗談ですよ」

 私は思わず、峰のことを呼んだ。するとその笑みは、いつのまにかごく普通の少女の零す 柔らかく可愛らしいものへと変化していた。
 私はどう反応すればいいのか解らなくて、 ただ峰が小さくくすくすと鈴を転がしたような笑い声に合わせて、笑った。
 その笑みはきっと当時の私なんかでは真似できるようなものではなく、 きっと今であっても私には似合わないものなのだろう。

 峰は、私の持っていないものを持っていた。

 例えばそう言った大人の女性がするような笑い方だとか、落ち着いた雰囲気だとか。 それを目にするたびに、純粋な羨ましさと、妬ましさを覚える。
 いや、羨ましいという感情も純粋なものだと思い込んでいただけかもしれない。 詰まる所、私は一つ年下の彼女に嫉妬していたのだろう。
 その感情を彼女に抱いていたのは私だけではなかったらしく、 時折他の後輩が、そんな感情の篭った視線を峰に向けていたことに私は気づいていた。 きっと峰も気がついていたのだろう。けれど、それを口に出したことは無かった。



 彼女と交わした言葉は今はもう、殆ど覚えていない。
 確かなことは、あのアーティストはいいよね、とか、デパートのショウ・ウィンドウに飾られているあの服は可愛いとか。 女子高校生らしいような、何組の誰が格好いいとかモテるとか、今考えると少し甘酸っぱい話題が 私たちの間に上ったことは一度たりともなかった、ということだ。
 なら、一体どんな話をしていたのか、と言えば思い出せないのだけれど。
 今思えば、彼女との会話自体に意味なんてものはなかったのだ。
 ただ、あの聡明で可愛らしい峰が傍に居る。 それだけで、私は十分だったし、それ以上のものなんて要らなかったのだから。




 峰の家に、私が遊びに行ったことがある。
 峰の両親は共働きで、峰は一人っ子らしく同じ境遇の私はそのことに対してどこか親近感を覚えたものだ。
 彼女に促されるように、部屋の中央のテーブルの合い向かいに置かれた座布団に座ると 峰が紅茶を運んできてくれた。
 暫く他愛も無い会話をしていると、ふと峰がおもむろにベッド脇のサイドテーブルの引き出しを開く。 一体なんだろうか、と特に深くは気には留めていなかったのだけれど、彼女が取り出した物を見て 私はぎょっとしてしまった。
 彼女が取り出したのは、煙草と、その辺で売っているような陳腐なライターだった。
 あまりの突然のことに驚き、言葉を失ってしまっている私を尻目に峰は窓を開けると1人煙草を吸い始める。
 中身が減り、無造作にサイドテーブルに置かれた銀色の箱。 毛筆で大きく『峰』と書かれているそれは、その概観も、 峰の手元から薫ってくる匂いもまさに「峰」のイメージそのもので。
 学生が煙草を吸うなんて、とか。それがいけないことだとか、 そんなことを思うよりも先に、私はただその峰の手馴れた仕草に見惚れてしまっていた。

「失望しましたか? 」

 その私の凝視するような視線に小さく苦笑いを漏らすと、峰はそう尋ねてきた。

「して、ないけど……びっくりした」
「そうですか」

 そう素直に感想を返すと、峰はまた苦笑して。それでもどこか嬉しそうに 煙草の灰をいつの間にか取り出したのか、携帯用の灰皿へと落とす。

「名前と一緒なんだね」
「はい。だから、好きなんです」

そう言って、峰は微笑む。そうして暫くして煙草が短くなると、 灰皿へとぐりぐりと押し付けて峰は煙草とライターを再び元あった場所へとしまった。

「一日一本って決めてるんです」
「どうして? 」
「その方が、美味しいと感じると思いません? 」

 あの日、私が問い掛けた時と同じように峰は私に尋ねた。 その顔に浮かぶ表情は、あの時のものと寸分も違わないもので。
 やはり何の反応も出来ない私に視線を送りながら、峰は生温くなった紅茶を口に運ぶ。
 峰にとっての煙草と言うものは、私にとってのアイスみたいなものなのかもしれない。 一日に一つだけ。そんなルールなど守っても破っても大差は無いのだけれど、 自分の中で作った勝手なルールに縛られる事で、よりそれがいい物に見える。
 そうして、現状で満足感を得るんだ。峰は、それを知っていたのだろう。

 それ以降、峰は私の前でだけ煙草を吸うようになった。一日一本と言う制約だけは頑なに守りながら。
 私だけが知っている、峰の秘密。女同士、峰と私だけの共有する、それは酷く特別に思えて。 だからこそ他の子達よりも優越感を覚えたし、その感情は甘美なものに思えた。


 今思えば、どうして年頃の女の子と言うものは同じ性の相手に対して執着するのだろう。 必ず共に行動する子を必ず一人は作り、その子に互いに依存しあう。 そうして己と言う個を確立し、のめりこむ事で存在を確認しているのかもしれない。
 男と女という関係の間では決して成り立たない、依存し続ける関係。
 私と峰も、正にそうだった。
 峰は本当に聡明な子だったからその事に気付いていただろうけれど、 それでも私に依存していた。それだけは間違いないと言える。


 峰は、私と『煙草』という秘密を共有する事で、私を所有したのだ。

 そんな峰は、一度だけ。自分のルールを破った日があった。 それは、私の卒業式の日の事だった。




 式を終えた私は、玄関近くの同じ卒業生達の喧騒から離れ、校舎の中へと向かっていた。
 今まではなんとも思って居なかったのに、いざ実際にここから去るとなると、それなりに寂しいような気がしたのだ。
 あぁ、購買のおばちゃんにはお世話になったな、とか、あの階段でこけかけた時は恥ずかしかった、とか ぼんやりと思い返しながら、気がつけば私は誰も居ないと知りながらも部室へと足を運んでいて。 何だかんだといいながら、結局はここに来てしまうのか、と自分で自分に苦笑する。
 がらり、と静かな廊下に音を響かせながら扉を開くと、そこに峰は居た。
 私が来たとき、既に峰は煙草を口に銜えていて。学校で吸うなんて、と酷く驚きながらも私は峰に声を掛ける。

「どうしたの」
「先輩が来るだろうと思って、待っていたんですよ」

 そう言い指の間に挟んだ吸いかけの煙草を、峰は携帯灰皿へ押し込めた。 ちらと見えた其の中には、まだ新しい煙草の吸殻が見えて。芽生えた小さな好奇心と共に、私は口を開く。

「煙草。一日一本じゃなかったの? 」
「今日は、いいんですよ」
「どうして?」
「先輩が、卒業するから」

 私がいなくなる事と、峰が煙草を多く吸う事と、何の関係があるのだろう。 その因果関係が解らず、私は不思議に思いながら何時もの定位置へと座る。峰も同じ様に座った。

「だから私も、今日で煙草止めようと思って。今ので、丁度最後の一本だったんですよ」

 そう言って、峰は笑う。今まで見てきた中で、一番屈託の無い笑みで。 私が卒業して悲しいだとか、寂しいだとか。そんな感情なんて一つも持たずに、峰は笑うのだ。
 そうして私も卒業するのだと。

(あぁ、そうか。そう、なのか)

「そっか」
「先輩、卒業おめでとうございます」
「うん、ありがとう」

 その祝いの言葉は、その日に聞いたどの言葉よりも、私の心に深く染み込んでいく。
 ありがとう。
 私はもう一度、心の中で呟く。
 ありがとう、峰。
 私も、卒業するよ。峰の隣から。峰が煙草から、私との秘密から卒業するように、私も。





 ただ、それだけ。私と峰の思い出は、そこで御終い。 あの卒業式以来私は母校に立ち寄っていなかったし、街中で峰に会うことも無かった。
 あの頃は携帯なんてものも無かったし、峰の実家の電話番号すら私は知らない。
 けれど、きっと私は一生忘れられないのだろう。
 あの女に出会い、過ごした。一生の、ほんの僅かな時間の事も。
 『峰』という名も、煙草も。




 気だるい感情と共に、紫煙を吐き出す。 そこでようやく、時刻が日付変更線を跨いでしまっていたことに気がついた。
 この年になると、誕生日なんて言うものは惰性的なものにしか過ぎなくて。 生まれてきたことへの喜びよりも先に、また一つ年三十路へ近付いてしまったことを思うと どっぷりと深い溜息が出てきてしまう。

「ハッピバースディ、トゥユゥー……ってか」

 自嘲気味に一人呟くと、同時に携帯のディスプレイが光った。 表示される名前は、見慣れた彼氏の名前で。
 残り短くなった煙草を灰皿へと押し付けると、私は携帯の通話ボタンを押した。